1975年9月、当時世界最強といわれたウェールズ代表を国立競技場に迎えた日本代表は6−82と大敗したが、23歳の石塚氏は抜かれればトライという相手の快足WTB、J・J・ウィリアムズの突進を一発のタックルでタッチラインの外に弾き飛ばした。
感激した大勢のファンが終了後、グラウンドになだれ込み石塚氏を胴上げ。
「炎のタックルマン」の面目躍如だった。
(どこぞのサイトから抜粋しました。)
石塚武生監督(以下、監督)のことを書こうと思いますが、どこからどう書いてよいのかわかりませんので最初から記憶に残っていることを書こうと思います。
こう書き出すとかなりの親交があったのだなと思われるかもしれませんが、滅相もありません。
ただ、今となっては僕の二男の代が唯一、監督に最初から最後までお世話になったということになります。
最初に監督と会って話したのはグラウンドに併設している監督室でした。
元日本代表であり、母校早稲田大学や社会人チームの監督を歴任されてきた監督はいわば鳴り物入りで常総学院高校ラグビー部の監督に就任したと…少なくとも当時はそういった先入観がありました。
ただ、僕は会う前に監督のブログ「ラグビーノート」を読んでいて、この人になら息子を預けて間違いないと思っていましたので一言「よろしくお願いします。」と言うために会いに行ったと記憶しています。
プレハブの監督室に通されたとき監督は桜のエンブレムのついたジャパンのユニフォームをまるでパジャマのように普通に着ていました。
もちろんレプリカでしょうが、元日本代表が着ているのだからレプリカもレプリカでなくなるくらいカッコよかった!
後輩であることを一応告げようとして…「監督は早稲田ですよね?」と切り出すと…
「あ〜、早稲田っていっても教育学部の体育ですから…バカですよ。バカ!」
「ははは…は…」
結局このとき、僕がそのバカな教育学部の体育で…もろ後輩だと最後まで言えませんでした。
っていうか、教育学部の体育がおバカであることは早稲田大学のトップシークレットのはずでは???
そのとき、僕は少なくともこの人は自分の肩書を売り物にするような人ではないと確信したのでした。